CSR経営塾の概要

CSRについて

CSRとは、Corporate Social Responsibilityの頭文字をとった略称です。 一般には、「企業の社会的責任」と訳されることが多いようです。 この後、「Corporate」、「Social(Society)」、「Responsibility」、それぞれの言葉の意味を説明していきます。

まず「Corporate」という言葉ですが、「企業」という狭い意味ではなく、広く「組織」と理解しておきましょう。つまり、企業・会社だけではなく、公共機関、自治体、学校、警察、病院、NPOなども「Corporate」に含まれることになります。 詳しくは後ほど説明します。

したがって、CSRの和訳は、「組織の社会的責任」としておきましょう。

まず、「Social」つまり「社会」を具体的にイメージしてみましょう!

CSRのまん中の「S」は、「Social」です。一般には「社会的な」と訳しますね。では、「社会 Society」とは何でしょうか? この「社会」をイメージしてみましょう。辞書には、「広い意味で共同生活を営む人々の集団」と書かれています。しかし、「社会」という言葉を、「人々(人間)の集まり」などと言ってみても、この場合(CSRを学ぶ上で)得られるものはありません。

まず「自分」からスタートしましょう!

つまり、この「社会」を構成しているのは、「均一な人間」ではないということを確認しておきましょう。

私たちが生きているこの世の中は、「たった一人の自分」と「大勢の他者」によって構成されている、とイメージできますよね。この点はきっと、誰もが同意してくれると思います。

【コラム】

余談ですが、これは、自分という特別な存在を、他者の中に埋没させないための手法でもあり、また「社会」の中で当事者意識を維持させるためのイメージ手法でもあります。一般に、当事者意識を持たないと、「他者依存」をもたらします。国の力が相対的に縮小している現代社会では、「国のせい、社会のせい」という姿勢は、環境をはじめとした公益の保護・保全は特に無視されてしまい、時間だけが経過していくことになり、結果として「座して死を待つ」こととなってしまいます。

CSRを学ぶ上でも、CSRという客体(つまり人間にとってのCSR)を知ろうとするのではなく、「自分にとってのCSR像」をイメージするように心がけましょう。そうすれば、今後皆さんが遭遇するであろう様々な場面に、CSRを応用することができるでしょう。

先ほど示したように、CSRを学ぶ上での「社会(Society)」は、「人間(人)」などという均一な存在の集まりではなく、「たった一人の自分」と「大勢の他人(他者)」によって構成されている、とイメージしておきましょう(下図参照)。わざわざこのように確認しておくことの理由は後に明らかになります。

自分にとって、すべての利害関係者(ステークホルダー……SH)が均一に見えているわけではない。社会の見え方は、各人によって異なる

「Corporate」とは「組織」、CSR活動の主人公は「組織」です。

次に、CSRの「C」は、「Corporate」です。通常はこの言葉を「企業の」と訳しますが、前述のようにここでは「組織の」と理解しておきましょう。CSRにおける主人公は、「企業」を含めた「組織」です。

そして、「組織」とは、「同じ目的のために、継続的に努力している人間の集団」と理解しておきましょう。火事場の野次馬や、映画館の観客など、「烏合の衆」は組織とは呼びません。「同じ目的」を共有しているわけでもなく、ましてや「継続的に努力している」わけでもないので、「互いのつながり」が皆無もしくは希薄だからです。

私たちは、社会人であれば、たいていはいずれかの「組織」に所属しています。社会に貢献していく単位として「組織」を形成しているといっても良いでしょう。私は早稲田大学という組織に所属していますし、企業に所属している人、病院、警察、研究機関、NPOなどに所属している人たちもいますね。(ただし、専業主婦(夫)の方は例外ですね。)

ここでも、個人の場合と同じように、「自分が所属している組織」と、「自分が所属していない組織」に分けて理解しておきましょう。そして、自分が所属している組織を「自組織」と名付け、自分が所属していない組織を「他組織」と名付ければ、「たった一つの自組織」と「たくさんの他組織」によって、この社会は構成されていることになります(下図参照)。もちろん、2つ以上の組織に所属している人も中にはいますが、その場合も同様に、「いくつかの自組織」と「たくさんの他組織」とイメージできますから大きな違いはありません。

決して、たくさんの他組織が均一に見えてはいない。顧客企業、仕入れ先企業、競合企業、無関係の企業などなど、関係性の種類も重みも異なる

21世紀のあるべき姿は、20世紀の延長線上にはない。

さてここで、「Society・社会」をより具体的にイメージするために、時間軸でおさらいしておきましょう。大げさに言えば、「時代認識の総括」です。とはいえ、現代史の勉強ではなくCSRを理解する目的なので、ここでは簡単に、「20世紀まで」と「21世紀以降」と分けて、その性質に注目してみます。

まず、20世紀という時代までに私たちの祖先が作り上げてきた「財産」と、逆にありがたくない「借金」つまり「社会的なひずみや欠陥」を総括しておきましょう。そのうえで、21世紀の流れを少しだけ展望してみましょう。

20世紀の財産

20世紀までに人類が獲得した「財産」はたくさんあります。代表的なものを何点か挙げてみましょう。まず、科学技術等の急速な発展によって、「物質的な豊かさ」を獲得し、餓死することが少なくなり、利便性も向上しました。多くの苦しみからも回避されました。また、移動手段の発達によって、距離の克服も進展しました。一人の力では行けない場所に行けますし、遠い国でしか獲れないものを食べることもできます。さらに、情報通信手段の発展によって、他者に関する知識が飛躍的に向上しました。これは公正や平等といった人権の醸成に不可欠な要素です。

こうした「財産」によって、派生的に「長寿」(多くの仲間と過ごすより長い時間)や「健康」(苦しみを回避した快適な時間)、「自由」(他者からの理不尽な束縛・呪縛からの解放)を獲得することができました。

もちろん、先進国と途上国の間で大きな格差が存在しますから、現時点でもこうした「財産」を享受できていない地域があることは否定しません。しかし、今はCSRを理解する段階なので、CSRの「テーマとしての南北問題」はもう少し先の話題として一時横に置いておきましょう。

20世紀スタイルの限界

このように、20世紀までに人類は多くの「財産」を獲得してきましたが、その同じ延長線上に21世紀の姿があるかといえば、必ずしも肯定できません。

資源の枯渇や温暖化、種々の汚染など環境問題が立ちはだかりますが、ここでは環境問題には直接触れずに話を進めることにします。

さて、20世紀の財産のうち「物質的な豊かさ」を21世紀も継続して追求していくとすれば、物質的な飽和状態に近づきます。すでに現代の先進国の多くがこの状態に近づき、作りすぎ、獲りすぎなどによって値崩れを起こし、廃棄物増加にも悩まされています。

これを含め、「距離の克服」、「他者に関する知識」、「長寿、健康、自由(解縛)」についても、途上国への水平展開を目指すニーズは認めるとしても、誤解を恐れずに言えば、その水準としてはすでに満足の域に到達していると感じることが少なくありません。つまり、長寿や健康については多少の議論があるにしても、これ以上早く目的地に到着する必要はないと思いますし、これ以上多くのモノが自宅で手に入る必要もないと感じることが多くなってきているということです。

そこまで断言することはできないとしても、少なくとも、21世紀やそれ以降の人類が目指す方向性とは言えないのではないか、「すでに頂上を目前にした登山者」のごとく状況ではないか、と。結論を急ぐ必要はないでしょうが、21世紀に生きる我々は、早晩こうした命題に正面から取り組んでいかねばならないのでしょう。

* * *

「専門分化」の功罪

このように、20世紀は、少なくとも先進諸国では、科学技術の発展により、「物質的な豊かさ」などの面においては「成功の時代」でした。この成功を導いた要素はいくつかありますが、その柱となったのは、「専門分化」という行動パターンです。これは、「分業」を社会的に進化させたもので、企業をはじめとした「組織」の形成と合わせて、効率化を飛躍的に進めました。人々は何人かが集まって「組織」を形成し、一つまたはいくつかの得意分野に集中して取り組み、それ以外は他社(他の企業)に依存します。一方で、組織内部も専門分化を進め、設計、製造、運送、経理、営業といった職種ごとに専門化を追及することで熟練度を高め、効率化を促進していきました。こうして、より高性能な商品を、安価に大量生産できるメリットにより、20世紀の「物質的な豊かさ」が形成されたというわけです。

しかし、こうした「成功の時代」の影には、皮肉なことに「専門分化」による害悪の部分が潜んでいました。

「専門分化」という言葉は、「専門(化)」と「分化」とに分けることができます。まず「分化」というのは、読んで字のごとく、「分けること」です。「自組織」と「他組織」は分割されますから、互いに独立することになります。当然に、自組織には必ず内部と外部を隔てる高い壁が生じます。つまり、「分割、独立」は、「遮断」につながり、情報の独占、ひいては隠蔽、偽装の温床となって行く危険性をはらんでいることが分かります。

一方の「専門化」というのは、専門知識の高度化により、素人には簡単には理解できない内容に高められることが通例になります。専門知識は、顧客を含む他者には理解できないということからも、ここでも、真の情報の隠ぺいや偽装の温床になって行く危険性をはらんでいます。また、こうした「専門化」の普及・深化により、我々全員は、すでに専門家たる他者・他組織を「信頼せざるを得ない社会・時代」になってしまっていることにも気付かされます。

私たちは、“信じるしかない”時代に生きている。

このように、現代の先進諸国において20世紀の発展を支えてきた「専門分化」という行動パターンによって、すべての自分・自組織は、「自分の専門以外はすべて素人」という状況に置かれています。各専門組織に対して、それ以外の人々は“信じるしかない”のです。たとえば、トラックや電子レンジや医薬品の安全性は、それらを生産した自動車メーカーや家電メーカー、薬品メーカーを信じるしかありません。しかも、その多くは、無批判、無条件、継続的な無数の「信頼」を無意識のうちに強いられます。後で確認しますが、いちいち検証していられないのです(下図参照)。

CSRの「R」…responsibility 信頼(せざるを得ない)社会。いちいち検証してられない。たとえば…購入した食品を食べても死なないという信頼。道路を歩いていても故障したトラックが突っ込んできて轢かれないという信頼。ガスヒータや給湯器を使っても一酸化炭素中毒で死なないという信頼。賞味期限や商品性能表示に嘘はないという信頼。購入したワイシャツを着ても肌がかぶれないという信頼。食事や仕事をしているビルが倒壊しないという信頼。

「責任」をイメージするには、まず「信頼」をイメージする。

実は、CSRの最後の文字「R」、つまり「Responsibility、責任」という言葉をイメージするためには、この「信頼」というキーワードが助けになってくれます。「責任」という言葉を単独で、具体的にイメージすることはとても難しいのですが、この「信頼」という言葉を介在させると明瞭にイメージすることができます。

* * *

このように「信頼せざるを得ない社会・時代」に生きている我々ですが、「信頼された側」の行動は、次の二つに分かれることになります。

一つは、「信頼に応える」こと。

二つ目は、「信頼を裏切る」ことです。

「信頼に応える」ためには

「信頼された側」が、確実に「信頼に応える」ためには、様々な努力が必要です。「信頼された側」とは、これまで見てきたように、各方面での「専門家」です。商品を製造・販売したり、サービスを提供するプロフェッショナルです。蛇足ですが、自由主義社会では、通常、商品やサービスを提供すると、その代償・対価として代金が支払われます。そして、「信頼」とは、その道のプロとしての相手方の貢献に対してなされるものです。こうした「信頼」に応えるためには、まず、「どのような信頼をされているか」を認識しておかなければなりません。たとえば、購入した製品が10年以上使える、という長寿命を「信頼」されているかもしれません。あるいは、乱暴な使い方をしても壊れないという頑丈さを「信頼」されているかもしれません。こうした「長寿命」や「頑丈さ」という信頼を認識していなければ、信頼に応えることなどできません。しっかりと調査しておかねばなりません。

逆に、「過大な信頼されても困る」のであれば、予め「信頼する側(つまり貢献する相手方)」に伝えておかねばなりません。たとえば、「換気しなくても暖房器具を使い続けることができる」という信頼をされているようなケースでは、「換気なしでは一酸化炭素中毒の危険性がありますよ」という事実を丁寧に伝えなければなりません。「そのような間違った信頼をされては困ります」、と。

誰もがプロであり、当事者である

信頼に応えることは、信頼された側、その当人(当該の組織)にしかできません。他人に任せることができません(当該の作業を委託することはできますが、そのイニシアチブを取るのは当人に限られます)。信頼された側の当人が、プロ(専門家)としての知識と経験を駆使して、心配し続ける、つまり信頼を裏切る危険性を定常的に分析して回避する行動をとり続けることによってのみ、「信頼に応える」ことが可能となります。そのために、継続的な努力が必要です。心配な部分については改善を重ね、自分たちに不足している知識や力量を補填する努力も必要となることが少なくないでしょう。このあたりは、管理あるいは「マネジメントシステム」という分野の話になりますが、後に説明することにします。

「不祥事」とは「信頼を裏切る」こと

さて、逆に、「信頼を裏切る」ことは実に簡単です。まず、意図的に裏切る、騙すようなこともありますね。これらはもちろん犯罪ですから、法的な処罰の対象となります。また、意図的ではなくても、過失、つまり怠慢や不注意で、結果的に裏切ってしまったというケースもあるでしょう。いわゆる「不祥事」と呼ばれる「信頼を裏切る」事件は、最近、これも枚挙にいとまがないほどに頻発しています。

意図的に裏切るケースでは、事故米流通事件、ウナギ・牛肉・鶏肉の国産偽装事件、耐震偽装事件、などが挙げられます。怠慢や不注意で裏切ってしまったケースでは、毒入り餃子事件(輸入業者から見て)、給湯器一酸化炭素中毒事件、などが挙げられるでしょう。これらの中間的なケースもありそうです。

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「信頼」と「責任」の関係

ところで、「信頼する側」と「信頼される側」との間には、下図のように、「信頼」と逆方向に向かって「責任」が発生します。

他組織から自分の組織への信頼の流れと、自分の組織からまた別の組織への信頼の流れ。この流れにそって均整の支払いが行われる。また逆の流れで責任の流れがあり、金銭の授受に対してモノやサービスの移動がある。

先ほども触れたように、自由主義社会では、貢献(商品やサービス)の代償・対価として通常は代金(金銭)を支払います。代金とともに信頼が相手方に与えられると考えるとイメージできます。

一方、「責任」とは、貢献としてのモノやサービスの提供(あるいはそれ以降に継続する)とともに果されるとイメージできるでしょう。

自分・自組織からみれば、他人・他組織に代金を支払って貢献をしてもらった際に、相手方(本図では下側の「他人・他組織」)が、プロ(専門家)として「信頼に応えてくれる」と思っているに違いありません。

その具体的な「信頼」に対して、「責任」を果たしていくことが、相手方に求められている、という構図です。

逆に、自分・自組織が(本図の上側の)他人・他組織に貢献して代金を得る場合には、相手方の信頼に応えるために「責任」を果たしていくことになります。

* * *

「信頼」と「責任」はコインの裏表

したがって、「信頼なきところに責任なし」と言えるでしょう。「責任」の背後には、必ず「誰かからの信頼」が隠れています。ちょうど、コインの裏表のように、「信頼」と「責任」は切っても切れない間柄なのです。

逆に、誰からも何の「信頼」もされていない場合には、「責任」は発生しません。私は医者ではありませんから、誰からも「病人を治す」という「信頼」をされていませんから、「病人を治す」という「責任」も生じません。また、日立製の冷蔵庫が壊れても、東芝が無料で交換や修理をする「責任」は生じません。日立の製品を購入した人の「信頼」に対しては、当事者である日立が責任を果たす(あるいは責任をとる)必要があるので、東芝への「責任」は発生しません。

いかがでしょうか、これで、「責任」を具体的にイメージすることができましたね。

【コラム】

「信頼」の兄弟のような言葉に、「期待」があります。

「信頼」は、既にできている・達成している「好ましい状態」「悪くない状態」を維持・継続することに対する心情です。したがって、いつもできて当たり前、合格点を取り続けているイメージです。最近はやりの言葉でいえば、コンプライアンス、つまり順法、法律を守ることなどは、いつもできて当たり前、合格点を取り続けるタイプなので、「信頼」の対象となりますね。

一方の「期待」は、まだ達成できていない水準・状態へ、現状否定による改善を繰り返して将来到達してくれるであろうことに対する心情です。目標などは「期待」に属します。携帯電話がもっと軽く・小さくなったらいいな、もっと安く買えたらいいな、もっと通話料が安くなったらいいな、などと「期待」すると、今はできませんが、その期待に応えることができるように努力を重ねることになります。

「信頼」と「期待」、両者の共通点は、「必要な水準」で決めなければならないという点でしょう。「期待」に関しては「ニーズ」という言葉で馴染がありますが、自分たちに「できる水準」で甘んじていると、競争相手に敗れ、その市場から撤退することになりかねません。このように、「信頼」はもちろんのことですが、「期待」も「必要な水準」で決まることになります。

「責任を果たす」ということ

さて、CSRの「R」、「Responsibility, 責任」のイメージができたところで、この言葉の2つの使い方に注目してみましょう。

一つは「責任を果たす」という使い方をします。

もう一つは「責任をとる」という使い方をします。

まず、「信頼される人」、先の例でいえば、食品メーカー、トラックメーカー、給湯器メーカーなどを思い浮かべましょう。「信頼される人」は、相手方からの「信頼」に対して、「責任を果たす」という形で応えていきます。つまり、「責任を果たす(果たしている)」という状態は、「信頼に応える」あるいは「信頼を裏切らない」という状態にほかなりません。好ましい状況が続いているわけですね。

逆に、「責任を果たせない(果たせなかった)」という状態は、相手方からの「信頼を裏切った」状態ということです。悪い状況になっているわけです。

もちろん、「責任を果たす」とは、かなりの努力を要することであり、辛いこと、我慢を要することに違いありません。これは、日本語の「責任」という言葉が「責メニ任ズ」と書くことにも符合しますね。

そして、「責任を果たす」ことができなかった場合、信頼を裏切って悪い状況になっている場合に至っては、「責任をとる」ことになります。その「責任の取り方」にはいろいろあります。

* * *

「責任をとる」ということ

「信頼された側」が「責任を果たす」ことができないと、信頼を裏切ることになります。そのときには、「責任をとる」ことになるわけですが、責任の取り方には次のようなものが挙げられます。

自動車や家電製品に多いリコール。これは無償で回収、修理、交換を行うことです。

また、不良品広告による危険性周知や謝罪もあります。

次に、悪い状況になっていることから、元の状態に戻す必要があるケースも考えられます。原状回復といいますね。

さらに、相手方に具体的な損害が発生している場合には、その損害を賠償することが必要なこともあります。

一般に、「信頼した側」からの信頼を失います。通常は、「信頼していたのに裏切られた側」はもう信じてはくれません。いったん信頼を裏切ってしまった場合、その信頼を取り戻すためにも、「責任をとる」ことになります。経営者やその組織全体が、当該の商品やサービスに対する信頼を維持できなかったということで、商品撤退(退場)や社長辞任、閉店(一部地域からの撤退)という選択をすることもあります。

いずれにしても、「責任をとる」という状況は、経済的な不利益を甘受するのみならず、個人や組織として、他者から軽蔑され、恥をさらすことにほかなりません。だからこそ、「責任をとる」ような状況にならないように、「責任を果たす」ことが重要になってくるわけです。

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信頼に応えるための日常活動における努力

このように「責任をとる」ような状況にならないように、「責任を果たす」つまり「信頼に応える」ように努力していくわけです。

「信頼に応える」ためには、先にもふれたように、まずは「どのような信頼をされているか」を調査・認識したうえで、心配な部分については改善を重ね、自分たちに不足している知識や力量を補填する努力も必要となることが少なくないでしょう。つまり、プロとしての実力の養成、必要な情報収集、必要かつち密な計画と準備、慎重な実行と監視活動、リスクを予め防ぐ観点での対応準備、などを怠っていると、「責任を果たす」ことができないことがあり得ます。さらに、「期待に応える」には、この上により一層の改善努力を要することになります。

【コラム】<事例>とある大手総合電機メーカーの冷蔵庫 〜再生材料未使用事件〜

とある大手総合電機メーカーの冷蔵庫で、2009年、信頼を裏切る事件が発生しました。「冷蔵庫に使用していると記載していた再生材料を、実際には使用していなかった」という事件でした。これは、ISO14021環境ラベル「自己宣言による環境主張」のうちの「リサイクル材料含有率」にあたります。ちなみに、ISO14021とは、環境ラベルのうち、自己宣言による環境主張を行うタイプの国際規格です。この国際規格には、12種類のタイプが明記されており(下記参照)、このメーカーの冷蔵庫の事件は、このうち「⑦リサイクル材料含有率」に関する環境主張を行ったことになります。

【ISO14021、12種の環境主張】

①「コンポスト化可能」、②「分解可能」、③「解体容易設計」、④「長寿命化商品」、⑤「回収エネルギー」、⑥「リサイクル可能」、⑦「リサイクル材料含有率」(←このメーカーの場合はこれ)、⑧「省エネルギー」、⑨「省資源」、⑩「節水」、⑪「再使用可能及び詰替え可能」、⑫「廃棄物削減」

冷蔵庫の基本的な性能(冷凍・冷蔵性能)が劣っていたわけでもなく、また爆発等の危険性が増大したわけでもありません。要するに、「リサイクル材料を使って作られた、環境にやさしい冷蔵庫」として表示・広告していた内容を信じてこの冷蔵庫を購入した人たちの「信頼」に対して、このメーカーは「結果的に責任を果たす」ことができなかったということです。

「結果的に責任を果たす」ことができなかったこのメーカーは、「責任を取る」ために(信頼回復への再出発ために)“お詫び広報”(新聞全面広告、TVCM)を出しました。「莫大な損害」ですが、「信頼回復への再出発」のために必要な代償を支払ったことになります。「信頼回復」を「消費者の忘却」に依存するのは、CSR企業として建設的な態度とは言えません。こうした事件を糧として、自社のシステムや力量を向上させてこそ、CSRを活用したといえるのです。

CSR活動のタイプ

さて、CSRという言葉は、10年以上も前から使われていました。以前のCSRは、メセナ(企業文化活動)やフィランソロピー(企業慈善活動)に代表されるような、その企業や組織の「本業」と乖離した活動を指すことが多かったようです。

もちろん、メセナもフィランソロピーも決して悪いことではありません。しかし、あくまでも、ステークホルダから「信頼されていることは、「本業に関することが主のはずです。本業の実態や実質を包み隠して、着飾ることで虚飾のイメージを外部の利害関係者(信頼している側)に与えることは、決して真のCSRとは言えません。したがって、真のCSRとは、本業に浸透させることが本筋であり、実態・実質をレベルアップさせ、虚飾なきイメージを外部利害関係者に提示するものでなければなりません。

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不祥事・・・「無責任」の横行

「責任を果たす」こともできず、「責任を取ろう」ともしない状態を、「無責任」といいます。「無責任」とは、まさに、反CSRの極みです。一般には、企業など組織の「不祥事」という名称で、メディアに登場します。多くの場合、無責任は違法行為に該当するため、事件として取り扱われるからです。

ところで、信頼と責任は表裏一体ですから、本来は、この世の中の信頼を全部集めてきたもの「Σ信頼」と、責任の集積「Σ責任」を天秤にかければ、釣り合ってくれることが理想です。

信頼バブル:「Σ信頼」>>「Σ責任」。本来「信頼」と「責任」は釣り合っているべき。現実の「信頼」と「責任」はアンバランス。

しかし、現時点では、メディアをにぎわす不祥事や違法行為を見ていると、「Σ責任」に比べて「Σ信頼」の方が圧倒的に過多となっていると想像できます。

いわば、「信頼バブル」ともいうべき状況、潜在的な無責任が横行していて、それらが単にばれていないだけの状況ではないか、むしろ不祥事として明るみに出ているのは、こうした潜在的な無責任のほんの一部に過ぎないのではないか、と懸念します。そうした「無責任」が横行するようになると、社会全体が混乱することは明らかです。なぜなら、「信頼」という基本行為が裏切られ続けているのですから。

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CSRの役割・・・「疑心暗鬼社会」の回避、「信頼社会」の醸成

こうした無責任の横行を収束させ、21世紀を(疑心暗鬼社会ではなく)「信頼社会」へと誘導するために、CSRの活用に私たちは期待するのです。

繰り返しますと、着飾るような虚飾ではなく、実質的な実力アップのためのCSRであり、本業との関係の希薄な取り組みで「重ね着」するようなものではなく、その組織の本業に浸透させるようなCSRであり、その組織と他組織を分離させる性癖から脱却し、むしろ利害関係者(関係する他組織等)とのつながり・絆を強化してファンを増やすためのCSRであり、完成・完了に安住せず、常に努力を重ねていくためのCSRと認識する必要があります。

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